松村北斗くんとソロ曲

 

アイドルのことを、俗世とは違う世界で生きるどこか人間味のない虚像だと思ってしまう。もちろん皆間違いなく人間だし、自担の人間味ある言動を目にしてキャッキャすることも多々あるけれど。

そう思って今までアイドルを信仰するかのように好きでいたはずなのに、分からなくなってしまった。

 

昨年SixTONES横浜アリーナ単独公演で北斗くんがソロ曲に披露した『あやめ/加藤シゲアキ』。そして今年の『みはり/男闘呼組』。どちらも思わず息を飲むほど素晴らしいパフォーマンスだった。

何を隠そう自担なので多少は贔屓目もあるけど、"表現者"として頭一つ抜きん出ていると思った。アイドルというキラキラした雲の上の存在が生み出す作品に、生死だとか渇望、愛、救いたい・救われたいという願いをぶつけられてひどく動揺した。あまりにもそれが人間的で、重苦しいものでもあると思ったからだ。表現者として彼なりに繊細な曲たちを解釈してやってみせる覚悟も感じた。

 

世界は 心の奥底にある

目を閉じている間に 楽園は崩れ落ちた

 

確実に理想郷が存在している。「世界」と「楽園」は彼にとってイコールなんじゃないかと思う。何もかもが認められ許され愛される世界。やさしい、やわらかな楽園。

 

あやめに関して、本家のシゲアキさんの演出は「救いたい」ように見えた。平和と多様性、全てのひとの幸せを願うと本人が言及していたように。

それと対照的に、北斗くんは「救われたい」を表現しているのかなと思った。あやめの花を抱きしめてうずくまったり、救いを求めて彷徨って、救われたい、生きたいと心で叫んでいる。

 

獣達のざわめきが 人の嘆きに変わってく
川の流れは枯れ果てて 瓦礫の山に立ちつくす
街をさ迷う人達よ 驚くには早すぎる
愛していたあの場所が コンクリートに埋もれてく
ビルの谷間に吹く風が 幼い瞳に突き刺さる

 

都市に取り残されるこの感じ。ビルに囲まれて余裕がなくなってしまう息苦しさを、静岡から上京してきた北斗くんも昔感じたのかもしれないと思ったら泣けた。

これは渇望。命をつなぐため酸素を求めるみたいに、生きるために立ち止まって息をつく場所を探し回っている。街を歩く人には必ず目的があって、帰る場所がある。漂泊者とまではいかなくても、居場所がいまいち見つけられないひとに、新しい街はやさしくない。

 

だから愛する人達よ 夢の中で逢えたなら
どうか憶えていて欲しい 涙に濡れたこの声を

 

夢の中はどこにあるのだろう。歌い終わりの飛び降り自殺を思わせる演出が頭から離れなくて、どうしても夢の中=天国の解釈にたどり着く。ここでも救いを求めて苦しんでいる。生きたいから死を選ぶって一見矛盾しているようで、でも正当な理由としてもおかしくない気がする。

どうであれ、理想と現実にギャップを感じて狭間でもがいているから、安らかになれる世界に行きたいのだと思った。それが生きているか死んでいるかは分からないけれど。

 

 

昨年のあやめで負った愛しい傷が一年経ってもまだ癒えないのに、また同じ角度から衝撃をぶつけられたので勢いで書きました。この曲を横浜アリーナで自分のソロ曲に選んだところからすべて好きです。宗教みたいに愛しているとはこのこと。間奏のコンテンポラリーさながらのダンスもすごく良かった。北斗くんのダンスって、演技を見ているような気分になる。魂を削って踊っている感じがする。最高でした。また気分で加筆修正します!

ここまで読んでくれた奇特なひといるのかな、いたら教えてください。愛します。